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美女と野獣|出会った小説:『美女と野獣』

美女と野獣

その日は月初めの日曜日で、大学近くの漁港で月に一度の朝市が開かれる日だった。遠方から通学していた私はいつも以上に早起きをして様子を見に行くつもりだったのに、こんな日に限って目覚ましを掛け忘れた。着替える間にぬるめの湯で戻したインスタント春雨を急いで胃に流し込み、自転車に飛び乗る。最寄りの駅から電車に乗り込んで到着時刻を確認すると、予定よりかなり遅い。案の定、港に到着する頃には市場の人々はほとんど撤収作業に取り掛かっていた。かろうじて残っているキッチンカーには大勢の人が列を作っていて、とてもじゃないが今から並ぼうとは思えない。かといって今日は他に予定もないため、少しだけ寄り道をして帰ることにした。

細い道に自転車を走らせるとそこは駅前の古い住宅地といった様相で、幅の揃った民家がぎっちりと並ぶ間に飲み屋や個人病院が点在している。その中に、古本屋と思しき建物があった。二、三歩入って奥を覗くと、カウンター越しに長髪の女性と目が合った。

「いらっしゃい」

女性に会釈をして周りを見渡す。驚くほど狭い店内である。隣の家の駐車場ほどしかないスペースに、両側の壁沿いと店舗の真ん中、合わせて三列の本棚が並んでいる。そのため通路はコの字で、大人が横歩きですれ違える程度の幅しかない。通路の角では、初老の男性がパイプ椅子に腰掛けて本を読んでいた。邪魔にならないよう少し離れたところで本の背表紙を眺めていると、いつの間にか男性も本棚を物色していた。

「マイさん、古事記。これ以外に古事記ある?」

「何、古事記?」

マイさんというのは店主の女性のことだろう。ふたりはしばらく問答を繰り返していたが、どうやら店主に心当たりはないらしい。気になって辺りを探せば、仕込んだのかと思うほど丁度よく私の目の前にあった。カバーのついていない、背の焼けた薄い文庫本である。本棚から引き出すと表紙に「古事記」とあるが、これが男性の探しているものと一致するのかは分からない。

「あの」ふたりの視線が刺さる。私は少し怯んで、右手に持ったそれを差し出した。

「一応ここにもありますけど、どうですか」

「ああこれ! この人のがねえ、いいんだよ。ありがとう」

男性は嬉しそうにぺこりと頭を下げる。そしてもう一冊、私が左手に持っていた方の本を見て言った。

「君はフランス文学が好きなの?」

「……いえ。そういうわけではないんですけど、映画が好きなので」

「なるほど。名作だねえ」

男性のことばに軽い衝撃を受けつつ、店主に会計を頼む。『これはフランス人が書いた話なのか』という発見より、『この老人には私が偶然とってきた本がどの国のものなのかすぐに判断できるくらいの教養があるのだ』という驚きの方が大きかった。私が知らないだけで、みんなそのくらいのことは知っているものなのだろうか。それ以上考える間もなく会計は終わった。

「はーい、ありがとう。百円ね」

結局その後、男性とひとしきり喋ってから家に帰った。驚くことに男性の息子さんはうちの大学の教授だそうで、男性と店主さんは学生時代の友人らしい。 店主さんが「またおいで」と言ってくれたし、買った本を読み終えた頃にもう一度行こう。それにしても、ちょっと変な古本屋だった。あの場所の不思議な空気感を思い出しながら、本の表紙をめくる。今日も結構楽しい一日だった。


出会った小説:『美女と野獣』

著者:ボーモン夫人